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  2. 越前焼について 越前焼の特徴

越前焼とは

越前焼きの特徴

素朴で頑丈、風情ある日用品

越前焼きイメージ1

越前焼の歴史をひも解くと、その誕生は今から約850年前の平安時代末期に遡ります。元々須恵器を焼いていた地域でしたが、平安時代末期に常滑の技術を導入して焼き締め陶を作り始めました。最初に窯が築かれたのは、現在「越前陶芸村」のある越前町小曽原だったといわれています。この窯は「あな窯」と呼ばれるもので、山の斜面をトンネル状に掘り抜いた全長13メートル前後の大きさの穴で壺や瓶、すり鉢など約1トンを1300度近い高温で一度に焼き上げるという効率の良い構造です。この窯の構造や焼かれた壺、甕、すり鉢などの特徴から、初期の越前焼の生産は常滑からこの地まではるばるやって来た陶工の集団が行っていたものと思われます。
主に壺、甕、すり鉢が生産されていましたが、当時は宗教的色彩を持つ経筒を納める甕や三筋壺なども生産されました。

その後、小曽原のほかにも熊谷や平等などの各丘陵地に窯を築いていきましたが、室町時代後期になると、甕60個、すり鉢1200個など約5トンを一度に焼くことができる全長25メートル以上もの巨大な窯を、越前町平等の一ヶ所に集めて大生産基地を作り上げました。大量の粘土や薪を使い、多くの陶工が働く越前焼生産基地が完成したのです。
この丘陵で焼かれた硬くて丈夫な越前焼は、越前海岸から船に乗せて北海道南部から島根県までの日本海沿岸に住む人々の元に運ばれ、大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染め、銭瓶などとして重宝されました。こうして北陸地方最大、日本海側最大の窯場へと発展した室町時代後期、越前焼は最盛期を迎えました。

しかし、江戸時代中期になると瀬戸焼などに押されて越前焼は次第に衰退し、生産量も縮小して行きました。窯は平等村の集落近くに移り、当時の古文書を読むと平等村の人々が農作業と焼き物作りで生計を立てていたこと、また燃料の薪や瓶土(べと)と呼ぶ粘土を集めるのに大変苦労していたことなどが伺えます。
江戸時代後期には、甕や壺だけでなく片口や徳利などの食器類も焼かれるようになり、明治になると信楽や瀬戸、美濃、九谷などの先進地から陶工を招いて食器や花瓶作りなどを始めました。また磁器や色絵陶などを取り入れようともしましたが、どれも定着せず、明治末から大正時代にかけて窯元の廃業が相次いだのです。
再び注目されるようになったのは戦後のこと。日本六古窯に数えられるようになり、また越前陶芸村の建設によって多くの陶芸家が全国から集まりました。現在は焼き締め陶の伝統を生かした種々の新しい作陶が試みられています。この越前陶芸村の周辺で、いままた新しい歴史が作られています。

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